純粋なテクストというものは思考可能だろうか

 テクスト内とテクスト外との間に正確な境界線を引くことは可能だろうか。

 読みという営為が経験性に依存せざるを得ないということについて、以下の記事を読むなかで思い返すことがあった。


AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20161114-00064079/


 読みという営為が少なからず経験性に依存せざるを得ないという事態は、あらゆる批評が印象批評にとどまらざるを得ないことを意味するだろうか。そこまでは言えないような気がするのだが、どうか。

 ただ、文化的背景や作者の情報からはっきりと弁別可能な、純粋なテクストというものを思考可能だと思うことは、ある危うさを含んでいるのではないか、という直感はある。

「まずテクストに則して読む」という態度がある。これは、テクストがテクスト外の情報から裁断されること、すなわち、作者がかく述べているから作品の価値は一意に決定される、あるいは時代状況がかくあるから作品の方向性はこれ以外あり得ない、などという暴力的な批評に対するアンチテーゼとして機能するのであれば、有効なものだろう。しかし、この態度が一つの規範として働き、作者や文化に対してテクストの絶対的優位性を語るようになるのであれば、それもまたいずれ否定されなければならないのではないか、と思う。その二つの間で揺れ動いてしまう、どうしても位置を定められずにいるから、ひとはテクストの快楽に耽ることができ、エクリチュールは郵便的な浮遊状態を抱えこんでいるのかもしれない、などとも思う。

 テクスト内とテクスト外が明瞭には弁別できないかもしれない、という留保を持った上で、テクスト外によるテクスト内の暴力的な解釈や、テクスト内によるテクスト外への抑圧に注意を向けることが、読むことの倫理としてひとまず要請されなければならないのではないか。

(けれども、このような思考もまた暴力なのだとすれば、どうすればいいのだろうか……)

 正常と病理との間に境界線を引かなかったジョルジュ・カンギレムは、その後どのようにして〈病理〉に向き合ったのだったか。テクスト内とテクスト外との境界線を引かない思考の後に、どのように〈テクスト〉を考えてゆけばよいのか、カンギレムから何かヒントを得られるかも知れない、などともぼんやり考えている。また、俳句同人誌『オルガン』8号に載っているという生駒大祐×福田若之の対談「プレーンテキストってなんだろう」も、もしこのあたりに関連する話題なのであれば、一度読んでみたい。