『声ノマ 全身詩人、吉増剛造』

 今日は東京国立近代美術館『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』のカタログと桐野夏生魂萌え!』を読んだ。今日は吉増剛造展のカタログの方についてだけ、メモ程度に書き残しておこう、と思い、少し書いていたのだけれど、しかしこの詩人の"全身"の営為を既存の、私の凡庸な語彙・文法体系に収めて語ろうとすることに強い抵抗を覚えたので、一旦やめた。一、二週間程度メモに書きつけたのち、それを整理しながら少しずつこの詩人を語る言葉を自分なりに模索するという営みが必要なように思えた。この抵抗感は蓮實重彦が言う「羞恥」(『赤の誘惑 フィクション論序説』)の話に近い。

 詩人に対する最も直截的で優れた批評は、自身の詩作品であろう。批評がそれを異なる語彙・文法体系の中に収めて語るとき、何か決定的な去勢を通過しなければならない。しかし、むしろ、だからこそ詩の語り直しではない、一つの地歩を獲た批評が成り立ちうる契機がそこに生まれる。

 吉増剛造展のカタログには吉増の聲が収められた「聲ノート」のCDが二枚付録されている。吉増のエクリチュールがなぜ音読不能なレベルで記号の群れを纏わせていながら、しかし肉声の感覚を残しているのかが、このCDを聴くなかで感得された気がした。そしてパロールでたどり着けない聲に吉増はエクリチュールの手を伸ばしているのだろうか、とも少し感じた(ほら、こういう語彙がとても恥ずかしいのだ……)。昨年出た『心に刺青をするように』と『怪物君』も読んでからまた少し考えよう。