言葉と運動 小原奈実作品へのノート

1. 書かれた言葉は、かつて書かれていた頃の手指の運動を離れ、いまは紙や画面といった空間に固着し、静止している。目がその上を動き、情報群の処理を通じて/とともに脳の神経群が励起され、論理的推論を行ったり、美しいと感じたり、あるいはもしかした…

攝津幸彦の階段、島の井の写真

攝津幸彦の「階段を濡らして昼が来てゐたり」という句、……私はこの「濡らして」を、とても素朴に、昼の光が濡らして、の意に取っていた。この句の鑑賞文の多くは、なぜ濡れているのか、そこを巡って様々に紡がれていたように思うが、私には、攝津幸彦の他の…

純粋なテクストというものは思考可能だろうか

テクスト内とテクスト外との間に正確な境界線を引くことは可能だろうか。 読みという営為が経験性に依存せざるを得ないということについて、以下の記事を読むなかで思い返すことがあった。AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて…

永田紅の歌集二冊

昨日一昨日で永田紅の歌集を二冊、第一歌集『日輪』(砂子屋書房、2000年12月)と第二歌集『北部キャンパスの日々』(本阿弥書店、2002年9月)を読んだ。永田紅は歌人の永田和宏と河野裕子を両親に持つ、短歌結社「塔」所属の歌人。兄の永田淳もまた歌人だと…

『声ノマ 全身詩人、吉増剛造』

今日は東京国立近代美術館『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』のカタログと桐野夏生『魂萌え!』を読んだ。今日は吉増剛造展のカタログの方についてだけ、メモ程度に書き残しておこう、と思い、少し書いていたのだけれど、しかしこの詩人の"全身"の営為を既存の…

二月十五日、また猫の俳句

起きてからしだいに身体を縛りつけてきた腹痛を抱えながら自転車を漕いでいると、腹中の臓器に鉄製の棘がついた糸をぴんと張られるような、冷たい痛みが縦横に奔っていった。すぐさま便器に座らねばならないというわけではなく、腹中が薄い刃で撫でられてゆ…

アルルカンの挨拶

今日はバレンタインデーだが特にこれといった用事もなく二月半ばの夕暮れが部屋をかすめてゆく。夕闇というほどの厚みをもたずに、透かせばその奥に光の在り処を指し示す半紙のようにうすく広がりながら、しかし気づいたときにはもう夜の闇の内側に取り残さ…

採光と詩のこと

わが家は南向きに大きな窓がついているにも関わらずなぜか採光が悪く、午後に入ると外の明るさに比べ室内は徐々に静まっていき、気づかないまま日が沈んでしまっていることがよくある。午後一時ごろに電灯をつけて作業することにもったいなさやばかばかしさ…

猫の俳句

試験期間中深夜まで起きているのに慣れきってしまったからか春休みに入っても身体は重たく午前十時起きあがろうとしても起きあがることまで繋がらない起きよという朝の命法が行動に結びつかないまだ夢の岸辺に立ちつくしてしまっていてこちらの世界が海の中…

再開

新しくまたブログを始めることにした。しかし一体何を書きつけることがあるというのだろう。 書きつけることが岩盤に尖った石で傷をつけることと同義にはなりえないことに少し苦みを覚える。 言葉がどこまでも意味を手放せないことが辛い。純粋な意味を拾え…