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二月十五日、また猫の俳句

 起きてからしだいに身体を縛りつけてきた腹痛を抱えながら自転車を漕いでいると、腹中の臓器に鉄製の棘がついた糸をぴんと張られるような、冷たい痛みが縦横に奔っていった。すぐさま便器に座らねばならないというわけではなく、腹中が薄い刃で撫でられてゆくようにしくしくと痛むというだけなのだけれども。全天が青の素晴らしい天候のなか、悪寒に襲われてそれどころではない身体を縮こませながら自転車を漕いでゆく。「しんしんと肺碧きまで海の旅」(篠原鳳作)の碧のイメージには、どこか病みに病み果てたひとが持つ清澄な雰囲気に添うようなところがあるな、などと脳をかすめる関係のない思いもありながら。

 今日は堀本裕樹(文)×ねこまき(画)の『ねこのほそみち』を読んだ。他にも桐野夏生魂萌え!』を半分まで読んだり、東京国立近代美術館『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』をぱらぱらめくったりもしていたけれど、読了したのは一冊だけ。激しい排泄を経ても腹部がごろごろと鳴り続けるなど、違和感が確かな物質感とともに残っていたので昼寝することにしたら、午後五時頃まで寝続けてしまったのだ。『ねこのほそみち』は、三日前に読んだ倉阪鬼一郎『猫俳句パラダイス』に続けての猫俳句アンソロジーになる。

『ねこのほそみち』には堀本裕樹さんによる選句と解説文以外にねこまきさんによる漫画がついていて、この二つがあることで、一句の解釈や世界観が一つに定まらないでいるところが良いと思った。もちろん、誰も鑑賞の際に他の解釈を除外しようという意志を持ってしているわけではないのだけれど、実際のところ、鑑賞が文章だけなのと、文章と絵と二つのかたちが並列されてあるのとでは、読者の感じ方も自ずから変わってくる。

 本書と『猫パラ』で重複して取られている句を挙げてみると、記憶が正しければ「仰山に猫ゐやはるわ春灯」(久保田万太郎)、「内のチョマが隣のタマを待つ夜かな」(正岡子規)、「スリツパを越えかねてゐる仔猫かな」(高浜虚子)、「猫が舐むる受験勉強の子のてのひら」(加藤楸邨)、「恋猫の恋する猫で押し通す」(永田耕衣)、「黒猫にアリバイのなき夜長かな」(矢野玲奈)、「掌にのせて子猫の品定め」(富安風生)、「冬空や猫塀づたひどこへもゆける」(波多野爽波)となる(『猫パラ』はもう図書館に返却してしまったので正確性には少し自信がない)。ほとんどが当然欠かせない、といった大家の句だが、矢野玲奈の句がこの中だと新しいものとして比較的目立つようにも思う。作者としては津久井健之が『ねこのほそみち』でも『猫パラ』でも複数句取られていて、若手から中堅にかけての俳人たちーー私のイメージでは『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』といった最近の俳句アンソロジーに収録されている人たちーーの中では猫俳句師範(?)といった風格を見せつけているのだけれど、句単体としては矢野玲奈の黒猫の句が新たな代表的猫俳句になっているのかもしれない。

『ねこのほそみち』にも『猫パラ』にも採られてはいないけれど、私個人としては「くさ色の思想を抱いて冬の猫」(寺井谷子)なんていう句もとても好きだ。猫は思想家のような顔をすることもあるけれど、それが「くさ色」という柔らかなもので形容されていて、「抱いて」だから眠っているのだろうか、静かに丸まっている「冬の猫」の、何も考えていなさそうだけど、やはりそれも一つの「思想」であることを示唆するようなすがたを頭に思い浮かべるたびに、少しだけ暖かな、やわらかな気持ちになることができる。

 今日はあと眠る前に吉増剛造の「聲ノート」のCDを聴く予定。中後期の吉増剛造は、正直言って私にはなかなか読めない詩人なのだけれど、しかし言葉が読めるという認識自体、私にはどうしても錯誤を含んだ判断のように思えてしまう。なぜなら、少なくとも私は、今まで読んできたどのような文章にも、「読み尽くした」と言える自信などないからだ。読み尽くした、と言えないなら、やはり読んだ、理解した、という言ってしまえることには、ある種の欺瞞や錯誤が入りこんでいるような気がする(そのことにこだわり過ぎると日常生活に差し障りがあるから普段は気にしないことにしているのだけれど)。私には吉増剛造の詩は読めないけれど、それは同時に、言葉のどこか本来的な、裸のすがたにも見えてくるから、この詩人の営為を難解だと言って切り捨ててしまうこともできないでいる。

ねこのほそみち ―春夏秋冬にゃー

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