大学短歌バトル2017を観て

 先日、ニコニコ生放送で第3回大学短歌バトル2017という番組が放送されていたので視聴した。全国にある大学短歌会がトーナメントで短歌と歌評を競い合うという内容だ。私は放送開始同時にページを開いたのだけれども、ポートに接続できないとかAdobe Flash Playerが最新版ではないとか何とかで、視聴するのに三十分ほどの苦闘を経、一回戦の途中から観覧することができた。ただ、やはりポートの開放に問題があったようで、コメントリストは表示されず、当然自分でコメントすることもできない状態で見ていた(そのため、今回書く内容のほとんどは既にコメントで触れられているようなものかもしれない)。

 

【平成によみがえる歌合】第3回大学短歌バトル2017――学生短歌会対抗 超歌合

http://sp.live.nicovideo.jp/watch/lv291986788

 

 出場校や試合のルールはこのページにまとめられている。優勝大学が判者の栗木京子、穂村弘小島なおのチームと戦うエキシビジョン・マッチでは、それぞれの歌人の新作を眼にすることができるのも嬉しい(ちなみに去年までは栗木京子でなく小島ゆかりが判者だった)。

 以下、気になった箇所や興味を惹かれた箇所について、思ったことを各試合少しずつだけメモ程度に書いていこうかと思う。

 

 一回戦・第一試合は大阪大学短歌会対九州大学短歌会で、その先鋒戦から面白かった。お題は「ししゃも」。

 

  焼きししゃも食む警備員 本日の夜間外来は銀の静けさ/佐原キオ・大阪大学短歌会

  腹裂けて子持ちししゃもの子は溢れ動機未満の瞬間がくる/松本里佳子・九州大学短歌会

 

 上が先攻、下が後攻(以下同順)。先攻・後攻の順番は方人にはまず影響を及ぼさないが、念人にとっては重要なものになる。後攻の念人は先攻の念人の評を聞いた上でその瑕疵を指摘したりできるというメリットがある一方(攻撃できる対象が相手の歌だけでなく評にまで広がるということ)、逆に先攻の念人の指摘や批判に対して適切な回答をしなければならないというデメリットもある。

 大阪大学短歌会の佐原キオさんの歌に惹かれた。阪大の念人・渡邊瑛介さんが言っていた、卵を抱えるししゃもの生のイメージと食べられる死のイメージとの二重性が病院という空間にも重なってくるという意見も良いなと思った。人の気配のない夜の病院という静謐な空間の中で「焼きししゃも」の熱が確かな存在感を帯びているようにも感じられて、そのことが題を素材の一つに落とすことなく活かせているようにも思われた。

 判者の穂村弘が、九大・松本里佳子さんの「動機未満の瞬間がくる」は感覚的に非常によく分かるフレーズなのだが、それをもう少し頭でも理解させて欲しかった、というのも考えたい意見。この、感覚での理解と頭での理解という話は、一回戦・第二試合大将戦で出された内的衝迫などの話とも無縁ではないような気がする。

  一回戦中堅戦のお題は「名」。

 

  本当のことはいつも分からないきみの名前に雨とあること/菊竹胡乃美・九州大学短歌会

  「前職は手品師でして」渡すとき名刺を一度裏返す癖/あかみ・大阪大学短歌会

 

 阪大のあかみさんの歌は「手品師でして」という言いさしに含羞が感じられるあたりがとても好きだ。ユーモアとさみしさが両立しているように思える。この試合も阪大の勝利だったが、阪大側は評が上手いなという印象があった。場慣れしているような落ち着きがある。

 一回戦大将戦のお題は「夢」。

 

  淫夢見ぬ夢精の感覚のこしつつ遅れてはじまる校長訓話/渡邊瑛介・大阪大学短歌会

  「おまえらの夢根こそぎ喰ふ!」胸に飼いならせない獏(ばく)をかえしに 森へ/真崎愛・九州大学短歌会

 

 真崎愛さんの獏の歌について、念人の方の「就活生のものとして読むとわかる」という援護は幾つかの難しさを孕んでいるように感じた。この意見を、歌の表現から就職活動が背景にあることは流石に読み取れない、と論駁することは簡単だが、このようなファンタジックに見える歌に現実との交通路になりうる読み筋を用意すること自体は、あながち間違った方法でもないと思われるのだ。

 この歌の獏は、作中主体の胸に飼われていて、「おまえらの夢根こそぎ喰ふ」という無差別的で烈しい攻撃性を持っているから(どうでもいいが、獏の言葉を「喰ふ」と旧仮名にするなら「おまへら」になるのではないか)、作中主体の周囲への苛立ちの喩として読むことは恐らく可能だし、その背景として就職活動を考えることも、不可能ではないように思われる。ただ、そのような意見は、胸に飼われていることからこの獏は作中主体の心理の喩として読めるということ、その心理は周囲の〈夢〉に対する攻撃性を持っていることなどを踏まえた上で、ひとつの可能性として提示する、という方が良かったのではないかと思う。ひとつの可能性として提示する、というのは就職活動という背景を完全に前提化してしまうと、「森へ」をどのように読めばいいのか、という問題が付随してくるためだ。

 「手に負えない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない」(千種創一『砂丘律』)のように、自分でもコントロールのできない心理を動物に喩え、その〈心理ー動物〉が自律的な力を持って勝手に運動するという発想の歌はあり、この歌もそのような喩の使い方をしているものとして読める。また、千種創一の歌において内面の出来事である「感情」が外部の空間を、白馬という喩に導かれて「駆ける」運動をするところに詩的飛躍があるように、この歌の貘も、心理の喩で(も)ありながら内面に居座り続けるわけでなく、「森」という外界へ導かれていく最後に一つの飛躍がある。喩が、ある語の代替に留まらず、自律的な力を持って散文的な論理を超え出ようとすること、つまり、獏が苛立ちや憤りの代替表現に留まるのであれば、その獏は自身の内面から切り離せないはずだが、この喩の他者性、動物としての側面の方が力を持ち、「森」という外界へ返しにゆくことが可能になること。一字空きの後のこの「森」は、広大な外界を示していながら内面の心理にも密接に関わっているものとして、外界/内面に絶対的な断絶を設けるような日常の論理を突き崩す空間としてある、という風にも読めるかもしれない(もちろん、こんなことを長々と歌合の場で言うわけにはいかない)。

 

 一回戦・第二試合は早稲田大学短歌会対神戸大学短歌会だった。先鋒戦のお題は第一試合と同じく「ししゃも」。

 

  信じれば叶うと聞いて給食のししゃもをしっぽからかじりつづけた/関根一華・早稲田大学短歌会

  あの川辺で手を繋いだはずだったししゃもが回遊してくる秋に/むらかれん・神戸大学短歌会

 

 むらかれんさんの「ししゃもが回遊してくる秋に」というスケールの大きい叙述が良いなと思った。判者の栗木京子も言っていたが、循環する、変わりのない未来まで示唆するししゃもの回遊と、「だった」という一回性の過去との対照が鮮やかなのではないか。

 早稲田大の念人の方の、神大側の「ししゃも」という語のチョイスに必然性がないという指摘に対して、神大の念人・村上なぎさんがその指摘をそのまま切り返していたところも面白いなと思った。回遊してくる魚はししゃも以外にもある、という指摘はそのまま給食の定番メニューはししゃも以外にもある、という指摘に繋がってしまう。調べると、どうやらししゃもを尻尾から食べると足が速くなるという話があるらしいので、これを下敷きにしている歌なのかもしれない。このことを紹介して「ししゃも」という語の必然性を説くというステップを挟んでから、相手の語の必然性について疑義を呈するべきだったのではないかと思う。ただ、関根一華さんの歌の良さは、足が速くなるという一つの願いに限定させず「信じれば叶う」と抽象化させて、下敷きにしている迷信よりずっと世界を広げているところにあるとも思う。

 

 中堅戦の題は「名」

 

  東名阪、と誰かが言えばそれぞれの透明人間包囲されたし/九条しょーこ・神戸大学短歌会

  先輩の恋人の名前当てゲーム 正解にたどりつかず三月/大村咲希・早稲田大学短歌会

 

 判者の小島なおが、大村咲希さんの歌の「三月」を卒業の三月として読んでいたのは、確かにと思った。そこを踏まえると、体言止め二つで主体の心情が抑制されているような文体それ自体が、どこか切ないものに見えてくる。

 

 大将戦「夢」

 

  この朝に死んでいたかもしれないね夢精したのも覚えてないし/谷村行海・早稲田大学短歌会

  教室の壁に人数分の夢クリオネたちが半紙に眠る/村上なぎ・神戸大学短歌会  

 

 谷村行海さんの歌の「しれないね」「覚えてないし」という文体を、判者の穂村弘が「体温の低い文体」と表現していたところで何か痛快さを覚えさせられた。一方で神戸大の歌に内的衝迫があまり感じられない、という言葉もあり、これは恐らく、先に触れた「動機未満の瞬間がくる」に対する判詞とひとつ対照をなしている部分なのではないかと思った。また、穂村弘はこの谷村さんの歌をかなりの熱心さをもって擁護しているように見えて、今回の短歌バトルの判詞の中でも特に印象的なものだった。

 夢精した瞬間を覚えていないというのは考えてみれば当然のことだ。眠っているのだから。しかし眠っている間に、自分のあずかり知らぬところで射精という苛烈な(中家菜津子が「銀河のような」と喩えていたことを思い出している……「いつまでも生えてこなくて憧れるエジャキュレーション 銀河のような」『うずく、まる』)出来事が起こっていたというのは、確かに凄まじいことだ。私も、夢精というのを、自身の一部である精子を死に至らしめる出来事として理解するよりは、穂村弘が言っていたように、夢精していても気づかないなら心臓が止まっていても……、というようなニュアンスで取ってみたい。眠っている間に死んでいるかもしれない、という不安は通念としてあるものだが、それをこの「体温の低い文体」と併せて考えようとするとき、この歌はまだまだ底知れない魅力を秘めているように感じられる。

 また、村上なぎさんの歌も「将来の夢」と「眠るとき見る夢」の夢の二通りの語義を習字を媒介にして近接させたところが、題詠に対する一つのアプローチとして見事なものだと思う。

 

 一回戦・第三試合は外大短歌会対北海道大学短歌会(この試合だけ先攻と後攻の入れ替わりがなかったのだが、良いのだろうか)。

 先鋒戦「ししゃも」

 

  淫乱の神に夜空へはなたれて恵みのようにししゃも降るなり/中山かれん・外大短歌会

  朝に焼くししゃもの焦げた部分から崩れて今日が始まっていく/渡邉暉生・北海道大学短歌会

 

 ここでも外大の念人の方から「ししゃも」という語にする必然性がない、という意見があったけれど、自陣の歌に関してはその必然性を満たしている、というアピールが今ひとつ足りないまま批判がなされていたように感じた。「ししゃも」は「淫乱」や「恵み」と呼応する、という意見はあったが、それだけでは「淫乱」や「恵み」と呼応するのは本当に「ししゃも」だけなのか、という切り返しをまだ許してしまうような気がする。

 評の際に、ある語を使う「必然性」にまで踏み込んでしまうこと自体、どこまで有効な攻撃になりうるのだろうか、と思わないこともない。その語を選ぶ必然性を常にはっきり意識しながら歌を作っているわけでもないと思うのだ。頭で分かるような必然性だけでなく、内的衝迫によって選択される語もあるはずだから。もう少し別な言い方をすると、語の選択の必然性というのは、他者に説明可能なものであるとは限らないのではないか。そう考えるとき、語の必然性に対する批評の有効範囲というのも限定されてくるのではないか、と思う。夜空からししゃもが降る光景は、そのような頭で分かる語の必然性を別にしたとき、より面白く眺められるような気がする。

 もちろん、内的なはずの衝迫が外部の読者から窺い知れること自体、「内的衝迫」が本当に作者の内面にだけ隠されているものなどではなく、あくまで歌から推察可能な外的事象でもあるということは考えておかねばならないし、このことは読解における作者の「技術的信頼」にも関わってくるものだと思うのだが、ここで論じることでもないので措いておこう。

 

 中堅戦「名」

 

  あざやかに花の名前を掠めとり君は世界を原始にかえす/神谷俊太郎・外大短歌会

  ファミレスで君の名前を記入する 君の名前で僕が呼ばれる/西村優紀・北海道大学短歌会

 

 北大の歌に関して、作中主体の感情が見えてこないという批判があって、北大の念人の方もそれを受けつつ、逆にそれこそがこの歌の素晴らしいところだ、と評を続けていたけれど、何となく私はこの歌からは嬉しそうな感じがした。「君の名前」のリフレインに、口中で何度も気にいった言葉を唱えて、舌に転がせるような愉快さがある気がする。現在形の動詞の終止形でどちらも閉じられる淡々とした文体(主体の感情が見えないという批判はここからのものだろう)と、その中での「君の名前」のリフレインによるかすかな愉しさは、この歌の中で少し複雑なかたちで両立しているように思える。きっと外面的には普段と変わらない様子で名前を記入し、普段と変わらない様子で名前を呼ばれる「僕」の姿が、全体の文体と経験から推察される一方で、その内心ではかすかな歓びを躍らせている主体の感情がこのリフレインから推察されるようになっているんじゃないだろうか。外面的な感情(つまり、感情が見えないこと)と内面的な感情を同時に表現できているのだとしたら、凄いことのような気がする。外大の念人の方も判者の栗木京子もリフレインが十分に効いていない気がする、と言っていたが、むしろその些細さこそが、このリフレインにおいては肝になっているように思われるところがある。

 

 大将戦「夢」

 

  懐かしい夢から覚める感触は燐寸が消える一瞬に似て/北島洋・外大短歌会

  夏風邪に半びらかれるくちびるのすこしうかつな夢魔だねきみは/岐阜亮司・北海道大学短歌会

 

 外大の念人の方が指摘していた夢魔という語の意味と作中の状況の齟齬、ひらがなの多用、「半びらかれる」という造語気味な言い方の全てが、逆にこの歌のユニークで優れた点のように思われた。こういう歌は攻撃するのが非常に難しいのだろうな、と思う。北大の念人・渡邉暉生さんも夢魔が眠っていること、ひらがなの多用について、そここそが魅力と反論していたが、「半びらかれる」には触れていなかったので、そこを聞いてみたい気もした(判者の穂村弘は言及していた)。ちなみにこの「半びらかれる」のような技法については、俳句の方で仮屋賢一さんが用いた「鷲掴む」という言葉についての、福田若之さんのウラハイ=裏「週刊俳句」の記事で触れられている(http://hw02.blogspot.jp/2016/03/blog-post_8.html)。また、方人の岐阜亮司さんは準決勝第二試合・中堅戦の歌も非常に良くて、今回の短歌バトルで一気にファンになってしまった。

 

 第四試合は國學院・二松學舎大學連合対岡山大学短歌会。

 先鋒線「ししゃも」

 

  全人類の母になりたい欲望を殺して晩のししゃもを運ぶ/桜望子・國學院・二松學舎大學連合

  崩しても崩してもいのち箸先が死んだシシャモの腹をまさぐる/山田成海・岡山大学短歌会

 

 國學院・二松學舎大學連合は全員声がはきはきしていて声量も大きく、場の盛り上がりという意味では一番だった。是非とも以降の短歌バトルにも出て欲しい。

 桜望子さんの歌は「殺して」の語を通過したところで、「全人類の母」のイメージが一気に縮小され、小さな死んだししゃものイメージに変換されるところに面白さを感じた。全人類の母も子持ちししゃもも数えきれないほどの命に関わる存在として相同性を持っているが、そのスケールの違いは明らかであり、全人類の母がこれからも人類を生み続けるであろうのに対して子持ちししゃもには子を産む未来が途絶えている。このようなイメージの転換を鮮やかに導くという意味で、「殺して」の一語が効果的に配置されているように感じた。ちなみに勝者は岡山大学の方。

 

 中堅線「名」

 

  羽をひとつ与へるやうに卒業のすべての子に配つてゐる名札/川上まなみ・岡山大学短歌会

  ひとりきり菜の花畑に寝転んだ名前にくさかんむりが欲しくて/乾遥香國學院・二松學舎大學連合

 

 乾遥香さんの歌は非常に良くできていて、良くできているが故に、作られた光景という感じがあるという批判を受けていた。「ひとりきり」というあたりに、つまりこの「くさかんむり」の名前は他人に見せるためのものではなく、自分ひとりのためのものであるというあたりに、何か鋭いものがある気もするのだけれど、この勝負も岡大の勝利。

 

 大将戦「夢」

 

  アイドルがセックスしても夢は夢 目覚めたら東京も朝だよ/佐藤まどか・國學院・二松學舎大學連合

  私の投げる夢のかけらに白鳥がゆっくり集う音のない午後/森永理恵・岡山大学短歌会

 

 この佐藤まどかさんの歌についても、判詞での穂村弘の擁護に何か熱意を感じた。決勝戦中堅戦の選評で、穂村弘は「短歌に扱える適正な情報量」に従いすぎるのは良くないとよく言う、という話をするのだが、ここでの試合もこの「適正な情報量」をめぐる戦いになっている気がする。今回の短歌バトルで、穂村弘は、応援したかったけど自分に嘘はつけなくて相手方に旗を上げた、という選評をすることが二、三回あるのだが、その中で嘘をつかずに応援したいものに旗を上げることができた歌として、一回戦第二試合中堅戦の谷村行海さんの歌と、この佐藤まどかさんの歌がまずあるのだろうと思う。結果は岡山大学の勝利。

 

 準決勝・第一試合は大阪大学短歌会対神戸大学短歌会。関西同士の勝負になる。

 準決勝の先鋒戦のお題は「ブーツ」

 

  昨晩の靴用カイロがあたたかいままのブーツで踏みつける柚子/あかみ・大阪大学短歌会

  キリンだったわたしの前世この痣は柄の名残でブーツは蹄/むらかれん・神戸大学短歌会

 

 阪大の念人の方は、自陣の歌を「昨晩の靴用カイロ」という情報から、昨晩何かしらの急用があって外に出かけ、今朝になってもその興奮が冷めやらない状態でいる、ということを背景に読み取っていっていたのだが、私は「興奮」まではなかなか読めなかった。また、家にいて用事ができたのでカイロを入れて出掛けた、ではなく、会社から帰るときに持ってきていたカイロを入れた、というような読みは無理なのだろうか(阪大の評だと非日常性が前提化されていたけれど、日常性を前提にして読むことも不可能ではないような気がする)。神大の念人の方もまた作中主体が前世を自身で選択している歌として読んでいたが、これも私には読めなかった。歌合という場で歌の前提や背景に言及することの難しさを思う。

 

 準決勝次鋒戦のお題は「羽」

 

  その愚痴を思う存分聞かされて返事の途切れた手羽先かじる/九条しょーこ・神戸大学短歌会

  カラス飛ぶとき抜け落ちる羽ペンの軌跡が描く都市の輪郭/渡邊瑛介・大阪大学短歌会

 

 この勝負についても評が少し難しかった。神大の評は、手羽先がブーメランのようで受け身のかたち、というように述べていたところが私には呑み込めなかったし、阪大の評も羽が都市に落ちて点在しているのを結んで都市の輪郭が浮かぶ、というのもなかなか読めないように思われた。判詞で、穂村弘がどちらも難しいからとりあえず勝負が延びるように一敗側に旗を上げたと言っていたのが面白かった。そういうこともあるだろう。

 

 準決勝大将戦のお題は「銭」

 

  わが体暴かれるとき銭湯のロッカーキーは光を湛う/佐原キオ・大阪大学短歌会

  駅前のティッシュ配りの給料が投げ銭制でちょっと心配/村上なぎ・神戸大学短歌会

 

 阪大の念人の方の評で、「銭湯」は地方的な繋がりが強く、そこに闖入者的に存在している作中主体の緊張が「暴かれる」という表現に表れている、というような説明があった。判者の栗木京子はその「銭湯」の地元感に説得力を感じていたようだが、私はまたそこまで読むことができなかった(単純に一首の背景を読み取る能力が私に欠けているというのもあるだろうが)。緊張感だったのか。私は「わが体暴かれるとき」「光を湛う」を誇張のレトリックとして読み、どこか宗教性まで漂うようなその叙述と、「銭湯」「ロッカーキー」という俗の要素とのギャップが面白い歌だと思って読んでいた。

 

 準決勝・第二試合は岡山大学短歌会対北海道大学短歌会。

 準決勝先鋒戦のお題は「ブーツ」

 

  旅先でスノーブーツを購へり夜の間に降る雪のため/川上まなみ・岡山大学短歌会

  いつまでもブーツのことを長靴と言う父の背に小さな会釈/渡邉暉生・北海道大学短歌会

 

 岡大の念人の方が自陣の歌を、歌の意味内容とは裏腹に、読んだとき一面の白い雪が浮かぶはず、と評していて、確かにそうだな、と思った。視覚像として、一首の中の現在時点でなく未来時の光景が思い浮かべられるというのは面白い現象だ。また、川上まなみさんの歌の「夜の間に」という四句目に間延びしている感じがあると北大の指摘があったが、それに対して判者の穂村弘が、むしろその「間延び」は長所で、時間がそこで引き延ばされているような感覚があると評していたのも面白かった。これはエキシビジョン・マッチでの穂村弘自身の歌に対しても適用しうる語の感覚だと思う。

 

 準決勝中堅戦のお題は「羽」

 

  くもらせた眼鏡に一瞬だけ羽根が見えるすべてのものうつくしい/岐阜亮司・北海道大学短歌会

  大企業に行く友人が手羽先に胡椒をかける ずっと上手に/森永理恵・岡山大学短歌会

 

 岐阜亮司さんの歌がやはり良い。「すべてのものうつくしい」という言葉がため息のように、そこに何もないまま美しい。こういう歌を読むと少し言葉を失ってしまう。

 

 準決勝大将戦のお題は「銭」

 

  銭湯のシャワーを浴びる友人の背中に来たるべき結婚式/山田成海・岡山大学短歌会

  小銭入れがうるさい死ねと好きな子に言った三十七度の廊下/西村優紀・北海道大学短歌会

 

 岡山大の山田成海さんの歌は今回の短歌バトルでの最優秀方人賞(最優秀作品ということ)。判者の小島なおが、ウェディングドレスを着るとき背中が見えるということを言っていて、確かにそこから一首の説得力が生まれるような気がした。また、銭湯で浴びるシャワーと、結婚式でのフラワーシャワーとの対照などももちろんあるだろう。

 

 決勝戦大阪大学短歌会対岡山大学短歌会。

 決勝戦先鋒戦のお題は「日」

 

  まっさらな貸出カードを秘めたまま日に焼けてゆく文学全集/あかみ・大阪大学短歌会

  祖父の死を知るよしもなく庭はあり鳩は何度も日を改める/森永理恵・岡山大学短歌会

 

 ディベートで「庭はあり」が不要か必要かという点に論が集まっていたあたりにむしろ岡山大学短歌会のペースになっているような印象を受けた。私は「庭はあり」は必要派。

 

 決勝戦中堅戦のお題は「流」

 

  水面に光はすんと佇んで川は流れを止めないでゐる/川上まなみ・岡山大学短歌会

  科学者の臓器は貨物室のなか その熱攫ってゆけ乱流よ/渡邊瑛介・大阪大学短歌会

 

 阪大の自陣の歌に対する評で、移植用の臓器を空路で運んでいる様子、熱意を持っていた科学者の夭折、という歌の設定を説明されて、短歌を十分に読むことは愚か、作者が必要最低限と思っているラインまで読むことさえ難しいものだな、と思った。岡大の念人・山田成海さんの、本当に歌の表現からそのような設定が読めるのか、という疑義はかなりクリティカルなものだったと思う。

 「水面に光はすんと佇んで」に対して、水面に乱反射する動的な光のイメージにそぐわない、という阪大からの指摘があったが、だからこそ水面に散らばる光という既存のイメージを覆す新しい表現になっているとも切り返すことができるのではないか、と思った。水が水平的なものでなく垂直的なイメージを帯びていることにどこか面白さを感じる。

 穂村弘がこのときの選評で「短歌に扱える適正な情報量」というものがあるのだけれど、それに従い過ぎてはいけないということを主張している、と話していたのが印象深い。短歌に扱える適正な情報量というのは事実としてある、それは認めた上で、しかし、それを克服するような試みを、この短歌バトルの中でも穂村弘は可能な限り(自分に嘘をつかない限りは)応援し続けていたのだろう。

 

 決勝戦大将戦のお題は「陸」。先鋒戦、中堅戦ともに岡大の勝利だったので優勝は岡大に決まったのだが、大将戦も行われた。こういうのは視聴者にとってとても嬉しい。

 

  延々と忘れられなきオニユリは母の朱硯の陸(おか)のよそおい/佐原キオ・大阪大学短歌会

  きみの立つ陸地をふやすための逢瀬 シンクに新たな洗剤を置く/山田成海・岡山大学短歌会

 

 佐原キオさんの歌の「忘れられなき」に違和感がある、という指摘がされていたが、私も違和感があった。「忘れられない」の「ない」は助動詞だけれど、助動詞としての「ない」は古語には存在しないのではないだろうか。これに相当する打消の助動詞は「ず」などのはずで、だから文語にするのであれば「忘れられぬ」あるいは「忘れられざる」になるのではないかな、と思う(前者は音が足りず、後者は「ざる」の後に助動詞が来ていないので誤用だけれど)。現代語にしかない「ない」の助動詞に、古語の形容詞「なし」の活用を適用した結果生まれたのが「忘れられなき」なのでは、と考えてみたが、私は文法に詳しいわけでもないので実際のところは分からない。こういう口語を通過した上でできる文語のことを擬似文語ということがあるが、ただ、擬似文語の中でもかなり口語の特徴が残ったままなので、厳しいもののような気がする。歌としては、オニユリと朱硯の色彩が重なることで、オニユリと母とが互いにイメージを交換しあうような妖しさがあって、とても好きな歌だ。擬似文語については澤俳句会の俳人である大野秋田さんが週刊俳句Haiku Weeklyに掲載している幾つかの記事に詳しい。

 

 エキシビジョン・マッチは岡山大学短歌会対判者チーム(小島なお穂村弘・栗木京子)で、題は先鋒戦・中堅戦・大将戦すべて「聖」。

 先鋒戦

 

  聖五月讃へる歌よ母親に一人分なる丸き膨らみ/川上まなみ・岡山大学短歌会

  聖書の表紙青かったこと 雪の日のブレザー燐寸の匂いしたこと/小島なお

 

 小島なおの歌は、念人・穂村弘の「絶対にどの角度から見ても負けない」という評通りで、これに勝つのは殆ど無理なのではと匙を投げたくなるような感じの歌だ。穂村弘の岡大への評が途中で切れて、一人分なる、ってところに何か変な匂いがする気がする……双子……というところで終わっていたのが味わい深かった。

 

 中堅戦


  冷蔵庫のドアというドアばらばらに開かれている聖なる夜に/穂村弘

  「ご迷惑おかけします」が点滅しカラーコーンの聖域がある/森永理恵・岡山大学短歌会

 

 念人の栗木京子が穂村弘の歌を「解剖されているような、惨たらしい感じ」と読んでいたのは「ばらばらに」という副詞もあって確かに読み取りたくなるところだと思う。準決勝第二試合先鋒戦の「夜の間に」に、そこで時間が引き延ばされているような感覚を穂村弘は読み取っていたが、「聖夜に」ではない「聖なる夜に」という結句もまた、時間の「引き延ばし」を行っているような感覚をもたらす気がする。

 人々が冷蔵庫から七面鳥やクリスマス・ケーキを取り出す動きの中で、人間ではなく冷蔵庫側の状態だけを切り取った歌として読むことができる。そこには聖夜を祝う食べ物や飲み物をたくさん取り出していく賑やかな祝祭性がある一方で、自身の内部から物がただ引き出されていく、極めて静かでどこか残酷な祝祭空間もある。人々の賑やかで明るい祝祭空間の背後で、それと表裏をなしながら、静かで惨たらしい祝祭空間があるという風に読むとき、様々な喩としてこの冷蔵庫は機能しうるだろう。そして、この冷蔵庫が多種多様な喩として読まれるとき、その様々な解釈を引き連れる中で、この一首が持つ情報量は「短歌に扱える適正な情報量」を軽やかに超え出ていくのではないか、と思う。

 

 大将戦

 

  どう考えてもきみは聖人走り書きされたさよならさえ美しい/山田成海・岡山大学短歌会

  雪の日の聖域ならむチューハイの缶置かれゐる電話ボックス/栗木京子

 

 栗木京子の歌は、これもまた流石としか言いようのないようなところがあり、チューハイの缶と電話ボックスという卑俗なものが、卑俗なもの同士のまま取り合わされながら「雪の日の聖域ならむ」という判断に説得力を与えている。それはやはり、小島なおや判者の佐佐木幸綱が言っていた、ここにチューハイを持っていた孤独な人の存在があったことの示唆によるのだろう。どれほど孤独であれ、実際に目にすることができれば、その人物に声を掛けたり、あるいは思いを馳せたり、何かしらの仕方で関係することはできるが、孤独な人がいたという存在の残滓、気配だけがそこにあるとき、その孤独な人に対して、ひとは何も関係を結ぶことができない。この非常に大きな淋しさのようなものが、非常にさりげない表現のなかで示唆されている一首のように感じる。

攝津幸彦の階段、島の井の写真

 攝津幸彦の「階段を濡らして昼が来てゐたり」という句、……私はこの「濡らして」を、とても素朴に、昼の光が濡らして、の意に取っていた。この句の鑑賞文の多くは、なぜ濡れているのか、そこを巡って様々に紡がれていたように思うが、私には、攝津幸彦の他の句業まで見渡さずにいるときには、この階段だけがぽつりと、あたりまえのような昼の光のなかで、佇んでいるだけの光景のように見えた、光景だった……。

 ということを思い出していたのは、吉増剛造『心に刺青をするように』(藤原書店、2016年5月)の37番目の写真と文章、「島の井への下り口ーー沖永良部」を眼に映していたときだった。「段々が美しく濡れている」という文があり、島の井の女人(おんなびと)たちが桶を頭に載せて幅広の石の段々を上っている写真がある。この女人(おんなびと、……吉増さんの文章にあわせて括弧書きで読みを併記したり、「、……」という沈黙の前にかすかに息を止めるような読点の打ち方も試みているが、大きな牡丹に耳を寄せて、そのはつかな呼気(いき)を聴きとろうとするくらい、むつかしい、……)は段々を上っているが、おそらくは昼の、日の光が、その行く方から女人(おんなびと)も、石の段々も、濡らしながら下りていっている、……。この写真は吉増さんの作品でなく、(けれど、吉増さんは写真の上に宝貝を置いていて、置き去った指さきがかすかにまた、去った迹を残す光となっていたのでは、ないだろうか、……)綛野和子氏著、写真・芳賀日出男氏の『日本文化の源流をたずねて』(慶應義塾大学出版会、2000年3月)の写真のよう。吉増さんは宝貝以外に、折口信夫の歌を添えてもいる。


  島の井に 水を戴くをとめのころも。

  その襟細き胸は濡れたり


 攝津幸彦の「階段を…」の句について、小池光さんだっただろうか、たしか、この「昼」を女人の名前として読むような道すじを、示してくれている文章があった、朔太郎をやわらかく濡らす浦という女人の名も呼びよせて、……。私は、その文をはじめ、誤読だと思ったが、誤読の飛沫(岩成達也さんのことば、…)は、こんなところにまで飛びついているのか、……と。

 吉増さんの文章は論理を組み立てて、直線的に読んでいこうとすると、多くの石につまずいてしまう、と思った。この石道を、迂路をたどるような足どりでゆくこと、そのために吉増さんの呼吸(いき)を身体で、眼のさきで、指さきでなぞってみる、……そこから始めようと思ったのだった。

純粋なテクストというものは思考可能だろうか

 テクスト内とテクスト外との間に正確な境界線を引くことは可能だろうか。

 読みという営為が経験性に依存せざるを得ないということについて、以下の記事を読むなかで思い返すことがあった。


AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20161114-00064079/


 読みという営為が少なからず経験性に依存せざるを得ないという事態は、あらゆる批評が印象批評にとどまらざるを得ないことを意味するだろうか。そこまでは言えないような気がするのだが、どうか。

 ただ、文化的背景や作者の情報からはっきりと弁別可能な、純粋なテクストというものを思考可能だと思うことは、ある危うさを含んでいるのではないか、という直感はある。

「まずテクストに則して読む」という態度がある。これは、テクストがテクスト外の情報から裁断されること、すなわち、作者がかく述べているから作品の価値は一意に決定される、あるいは時代状況がかくあるから作品の方向性はこれ以外あり得ない、などという暴力的な批評に対するアンチテーゼとして機能するのであれば、有効なものだろう。しかし、この態度が一つの規範として働き、作者や文化に対してテクストの絶対的優位性を語るようになるのであれば、それもまたいずれ否定されなければならないのではないか、と思う。その二つの間で揺れ動いてしまう、どうしても位置を定められずにいるから、ひとはテクストの快楽に耽ることができ、エクリチュールは郵便的な浮遊状態を抱えこんでいるのかもしれない、などとも思う。

 テクスト内とテクスト外が明瞭には弁別できないかもしれない、という留保を持った上で、テクスト外によるテクスト内の暴力的な解釈や、テクスト内によるテクスト外への抑圧に注意を向けることが、読むことの倫理としてひとまず要請されなければならないのではないか。

(けれども、このような思考もまた暴力なのだとすれば、どうすればいいのだろうか……)

 正常と病理との間に境界線を引かなかったジョルジュ・カンギレムは、その後どのようにして〈病理〉に向き合ったのだったか。テクスト内とテクスト外との境界線を引かない思考の後に、どのように〈テクスト〉を考えてゆけばよいのか、カンギレムから何かヒントを得られるかも知れない、などともぼんやり考えている。また、俳句同人誌『オルガン』8号に載っているという生駒大祐×福田若之の対談「プレーンテキストってなんだろう」も、もしこのあたりに関連する話題なのであれば、一度読んでみたい。

永田紅の歌集二冊

 昨日一昨日で永田紅の歌集を二冊、第一歌集『日輪』(砂子屋書房、2000年12月)と第二歌集『北部キャンパスの日々』(本阿弥書店、2002年9月)を読んだ。永田紅歌人永田和宏河野裕子を両親に持つ、短歌結社「塔」所属の歌人。兄の永田淳もまた歌人だというから、佐佐木信綱から昨年角川短歌賞を受賞した佐佐木定綱まで続く佐佐木家を別格とすれば、この永田家も凄まじい歌人一家だ。

 第一歌集『日輪』は文語体を主としつつ口語表現を交えるかたちで詠まれており、全体としてさほど無理のない表現で丁寧にまとめられている印象がある。巻頭一首目の「人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天」が有名だろうか。黒瀬珂瀾編の「ゼロ年代の短歌100選」(『現代詩手帖』2010年6月号)にも選ばれている。

 好きな歌を五首だけ引く。


  人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天


  対象が欲しいだけなのだよ君もガレのガラスをいっしょに見ても


  感覚は枯れてゆくから 明日君にシマトネリコの木をおしえよう


  遠景にデュラム小麦が満ちている日がきっとある君の冬汽車


  どこに行けば君に会えるということがない風の昼橋が眩しい


 「対象」や「感覚」といったいささか抽象的な語を使う印象もある。下の句で具体物が現れて抽象語に輪郭づけがなされるといったパターンが見られる中で、三首目は「枯れてゆくから」の後の一字空きによって順接が順接のまま宙に浮くような感覚になっていて面白い。「君の冬汽車」という隠喩的な表現もまた、上のような抽象語が置き換わったものとしても読めるが、全体を通してもこのような隠喩的表現は他にあまり見えず、例外的なもののようだ。また、「どこに行けば〜ということがない」というやや捻れを孕んだ、しかし端正な表現がひときわ心を惹いた。丁寧な文体の中でこのような順接の宙吊り、隠喩的表現、文の捻れが非常に魅力的に見えた。つまり、こういうものが私の好みなのだろう。

 第二歌集『北部キャンパスの日々』は1999年11月10日から一年間の日記体で編まれた歌集で、『日輪』を編纂している最中の永田紅の姿も見られるところが面白い。第一歌集ののちの第二歌集、というより第一歌集のアナザー・ストーリー的な性格を持つ歌集としても読むことができる。内容としては、日記体という制約のためか詠むモチーフは卑小な事柄にまで多岐に渡りつつ、文体もざっくばらんなところを多く孕むようになっている。こちらからも少しだけ引こう。


  ああそうか日照雨のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで

  ※ルビ:日照雨(そばえ)


  お互いに激せば激す桜草の花ちらちらと意識を占めて


  怒らせしままにて終わるやさしさを海岸線のように思いぬ


  ひるがおの睡りあふれてすきとおる唾液をたれもたれももたざる


日輪―永田紅歌集

日輪―永田紅歌集

歌集 北部キャンパスの日々 (塔21世紀叢書)

歌集 北部キャンパスの日々 (塔21世紀叢書)

『声ノマ 全身詩人、吉増剛造』

 今日は東京国立近代美術館『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』のカタログと桐野夏生魂萌え!』を読んだ。今日は吉増剛造展のカタログの方についてだけ、メモ程度に書き残しておこう、と思い、少し書いていたのだけれど、しかしこの詩人の"全身"の営為を既存の、私の凡庸な語彙・文法体系に収めて語ろうとすることに強い抵抗を覚えたので、一旦やめた。一、二週間程度メモに書きつけたのち、それを整理しながら少しずつこの詩人を語る言葉を自分なりに模索するという営みが必要なように思えた。この抵抗感は蓮實重彦が言う「羞恥」(『赤の誘惑 フィクション論序説』)の話に近い。

 詩人に対する最も直截的で優れた批評は、自身の詩作品であろう。批評がそれを異なる語彙・文法体系の中に収めて語るとき、何か決定的な去勢を通過しなければならない。しかし、むしろ、だからこそ詩の語り直しではない、一つの地歩を獲た批評が成り立ちうる契機がそこに生まれる。

 吉増剛造展のカタログには吉増の聲が収められた「聲ノート」のCDが二枚付録されている。吉増のエクリチュールがなぜ音読不能なレベルで記号の群れを纏わせていながら、しかし肉声の感覚を残しているのかが、このCDを聴くなかで感得された気がした。そしてパロールでたどり着けない聲に吉増はエクリチュールの手を伸ばしているのだろうか、とも少し感じた(ほら、こういう語彙がとても恥ずかしいのだ……)。昨年出た『心に刺青をするように』と『怪物君』も読んでからまた少し考えよう。


二月十五日、また猫の俳句

 起きてからしだいに身体を縛りつけてきた腹痛を抱えながら自転車を漕いでいると、腹中の臓器に鉄製の棘がついた糸をぴんと張られるような、冷たい痛みが縦横に奔っていった。すぐさま便器に座らねばならないというわけではなく、腹中が薄い刃で撫でられてゆくようにしくしくと痛むというだけなのだけれども。全天が青の素晴らしい天候のなか、悪寒に襲われてそれどころではない身体を縮こませながら自転車を漕いでゆく。「しんしんと肺碧きまで海の旅」(篠原鳳作)の碧のイメージには、どこか病みに病み果てたひとが持つ清澄な雰囲気に添うようなところがあるな、などと脳をかすめる関係のない思いもありながら。

 今日は堀本裕樹(文)×ねこまき(画)の『ねこのほそみち』を読んだ。他にも桐野夏生魂萌え!』を半分まで読んだり、東京国立近代美術館『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』をぱらぱらめくったりもしていたけれど、読了したのは一冊だけ。激しい排泄を経ても腹部がごろごろと鳴り続けるなど、違和感が確かな物質感とともに残っていたので昼寝することにしたら、午後五時頃まで寝続けてしまったのだ。『ねこのほそみち』は、三日前に読んだ倉阪鬼一郎『猫俳句パラダイス』に続けての猫俳句アンソロジーになる。

『ねこのほそみち』には堀本裕樹さんによる選句と解説文以外にねこまきさんによる漫画がついていて、この二つがあることで、一句の解釈や世界観が一つに定まらないでいるところが良いと思った。もちろん、誰も鑑賞の際に他の解釈を除外しようという意志を持ってしているわけではないのだけれど、実際のところ、鑑賞が文章だけなのと、文章と絵と二つのかたちが並列されてあるのとでは、読者の感じ方も自ずから変わってくる。

 本書と『猫パラ』で重複して取られている句を挙げてみると、記憶が正しければ「仰山に猫ゐやはるわ春灯」(久保田万太郎)、「内のチョマが隣のタマを待つ夜かな」(正岡子規)、「スリツパを越えかねてゐる仔猫かな」(高浜虚子)、「猫が舐むる受験勉強の子のてのひら」(加藤楸邨)、「恋猫の恋する猫で押し通す」(永田耕衣)、「黒猫にアリバイのなき夜長かな」(矢野玲奈)、「掌にのせて子猫の品定め」(富安風生)、「冬空や猫塀づたひどこへもゆける」(波多野爽波)となる(『猫パラ』はもう図書館に返却してしまったので正確性には少し自信がない)。ほとんどが当然欠かせない、といった大家の句だが、矢野玲奈の句がこの中だと新しいものとして比較的目立つようにも思う。作者としては津久井健之が『ねこのほそみち』でも『猫パラ』でも複数句取られていて、若手から中堅にかけての俳人たちーー私のイメージでは『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』といった最近の俳句アンソロジーに収録されている人たちーーの中では猫俳句師範(?)といった風格を見せつけているのだけれど、句単体としては矢野玲奈の黒猫の句が新たな代表的猫俳句になっているのかもしれない。

『ねこのほそみち』にも『猫パラ』にも採られてはいないけれど、私個人としては「くさ色の思想を抱いて冬の猫」(寺井谷子)なんていう句もとても好きだ。猫は思想家のような顔をすることもあるけれど、それが「くさ色」という柔らかなもので形容されていて、「抱いて」だから眠っているのだろうか、静かに丸まっている「冬の猫」の、何も考えていなさそうだけど、やはりそれも一つの「思想」であることを示唆するようなすがたを頭に思い浮かべるたびに、少しだけ暖かな、やわらかな気持ちになることができる。

 今日はあと眠る前に吉増剛造の「聲ノート」のCDを聴く予定。中後期の吉増剛造は、正直言って私にはなかなか読めない詩人なのだけれど、しかし言葉が読めるという認識自体、私にはどうしても錯誤を含んだ判断のように思えてしまう。なぜなら、少なくとも私は、今まで読んできたどのような文章にも、「読み尽くした」と言える自信などないからだ。読み尽くした、と言えないなら、やはり読んだ、理解した、という言ってしまえることには、ある種の欺瞞や錯誤が入りこんでいるような気がする(そのことにこだわり過ぎると日常生活に差し障りがあるから普段は気にしないことにしているのだけれど)。私には吉増剛造の詩は読めないけれど、それは同時に、言葉のどこか本来的な、裸のすがたにも見えてくるから、この詩人の営為を難解だと言って切り捨ててしまうこともできないでいる。

ねこのほそみち ―春夏秋冬にゃー

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  • 作者: 堀本裕樹,ねこまき(ミューズワーク)
  • 出版社/メーカー: さくら舎
  • 発売日: 2016/04/06
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アルルカンの挨拶

 今日はバレンタインデーだが特にこれといった用事もなく二月半ばの夕暮れが部屋をかすめてゆく。夕闇というほどの厚みをもたずに、透かせばその奥に光の在り処を指し示す半紙のようにうすく広がりながら、しかし気づいたときにはもう夜の闇の内側に取り残されている。一月の時間が淑気を含み砂糖のように流れていくのに対して、二月はとても薄く研ぎ澄まされていて、三月の甘やかさの前にそなえられた氷のようだ。

 バレンタインが二月の半ば、立春を過ぎ暦の上で初春にあたる時期にあることは、どこかとてもよろこばしいことのような気がする。もしかしたらいまの人々にとって、桃の節句よりもバレンタインの方が春の訪れを迎えいれるための儀式として機能していて、賑わっているのかもしれない、なんていうふうにも思う。


 今日は三橋聡『アルルカンの挨拶』を読んだ。荒川洋治が運営している出版社、紫陽社から出ている詩集だ。このブログの題名の由来にした詩句も、この詩集の「競技場にて」という詩に載っている。この詩人については何の知識も持っていなかったのだけれど、詩人の松下育男さんがTwitterでつぶやいているのをたまたま見て、インターネットで購入した。衝動買いだったわけだけれど、すくなくとも後悔はしていない。小さくて良い詩集だと思う。ちなみに、『アルルカンの挨拶』はグッドバイ叢書というシリーズの一冊目みたいで、その二冊目が松下育男『榊さんの猫』になるようだ。


  そして、そんなふうにぼくを忘れてくれたらいいのだ

  ぼくはちょっと停ち止まって、かるいくしゃみをしているだけなのだから

  (「木の肖像」部分、『アルルカンの挨拶』)


  そして、いちばん単純な場所から

  ついにはひきあげることのできないわたしを

  わたしは木を眺めるように考えることができるだろうか

  (「木を眺めるように」部分、同)


「木の肖像」から始まって「木を眺めるように」で終わる、二本の木に挟まれるかたちのこの構成はきっと意図的なものなのだろう(初出一覧を見る限り、詩の並びは時系列順ではない)。すっと持ちあがるこの軽くて小さな詩集が蔵する世界もまた小さくて単純な場所だけれど、その中で詩の主人公たちは、その世界のいちばん白い部分を見つめようとしている。

アルルカンの挨拶

アルルカンの挨拶