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攝津幸彦の階段、島の井の写真

 攝津幸彦の「階段を濡らして昼が来てゐたり」という句、……私はこの「濡らして」を、とても素朴に、昼の光が濡らして、の意に取っていた。この句の鑑賞文の多くは、なぜ濡れているのか、そこを巡って様々に紡がれていたように思うが、私には、攝津幸彦の他の句業まで見渡さずにいるときには、この階段だけがぽつりと、あたりまえのような昼の光のなかで、佇んでいるだけの光景のように見えた、光景だった……。

 ということを思い出していたのは、吉増剛造『心に刺青をするように』(藤原書店、2016年5月)の37番目の写真と文章、「島の井への下り口ーー沖永良部」を眼に映していたときだった。「段々が美しく濡れている」という文があり、島の井の女人(おんなびと)たちが桶を頭に載せて幅広の石の段々を上っている写真がある。この女人(おんなびと、……吉増さんの文章にあわせて括弧書きで読みを併記したり、「、……」という沈黙の前にかすかに息を止めるような読点の打ち方も試みているが、大きな牡丹に耳を寄せて、そのはつかな呼気(いき)を聴きとろうとするくらい、むつかしい、……)は段々を上っているが、おそらくは昼の、日の光が、その行く方から女人(おんなびと)も、石の段々も、濡らしながら下りていっている、……。この写真は吉増さんの作品でなく、(けれど、吉増さんは写真の上に宝貝を置いていて、置き去った指さきがかすかにまた、去った迹を残す光となっていたのでは、ないだろうか、……)綛野和子氏著、写真・芳賀日出男氏の『日本文化の源流をたずねて』(慶應義塾大学出版会、2000年3月)の写真のよう。吉増さんは宝貝以外に、折口信夫の歌を添えてもいる。


  島の井に 水を戴くをとめのころも。

  その襟細き胸は濡れたり


 攝津幸彦の「階段を…」の句について、小池光さんだっただろうか、たしか、この「昼」を女人の名前として読むような道すじを、示してくれている文章があった、朔太郎をやわらかく濡らす浦という女人の名も呼びよせて、……。私は、その文をはじめ、誤読だと思ったが、誤読の飛沫(岩成達也さんのことば、…)は、こんなところにまで飛びついているのか、……と。

 吉増さんの文章は論理を組み立てて、直線的に読んでいこうとすると、多くの石につまずいてしまう、と思った。この石道を、迂路をたどるような足どりでゆくこと、そのために吉増さんの呼吸(いき)を身体で、眼のさきで、指さきでなぞってみる、……そこから始めようと思ったのだった。