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永田紅の歌集二冊

 昨日一昨日で永田紅の歌集を二冊、第一歌集『日輪』(砂子屋書房、2000年12月)と第二歌集『北部キャンパスの日々』(本阿弥書店、2002年9月)を読んだ。永田紅歌人永田和宏河野裕子を両親に持つ、短歌結社「塔」所属の歌人。兄の永田淳もまた歌人だというから、佐佐木信綱から昨年角川短歌賞を受賞した佐佐木定綱まで続く佐佐木家を別格とすれば、この永田家も凄まじい歌人一家だ。

 第一歌集『日輪』は文語体を主としつつ口語表現を交えるかたちで詠まれており、全体としてさほど無理のない表現で丁寧にまとめられている印象がある。巻頭一首目の「人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天」が有名だろうか。黒瀬珂瀾編の「ゼロ年代の短歌100選」(『現代詩手帖』2010年6月号)にも選ばれている。

 好きな歌を五首だけ引く。


  人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天


  対象が欲しいだけなのだよ君もガレのガラスをいっしょに見ても


  感覚は枯れてゆくから 明日君にシマトネリコの木をおしえよう


  遠景にデュラム小麦が満ちている日がきっとある君の冬汽車


  どこに行けば君に会えるということがない風の昼橋が眩しい


 「対象」や「感覚」といったいささか抽象的な語を使う印象もある。下の句で具体物が現れて抽象語に輪郭づけがなされるといったパターンが見られる中で、三首目は「枯れてゆくから」の後の一字空きによって順接が順接のまま宙に浮くような感覚になっていて面白い。「君の冬汽車」という隠喩的な表現もまた、上のような抽象語が置き換わったものとしても読めるが、全体を通してもこのような隠喩的表現は他にあまり見えず、例外的なもののようだ。また、「どこに行けば〜ということがない」というやや捻れを孕んだ、しかし端正な表現がひときわ心を惹いた。丁寧な文体の中でこのような順接の宙吊り、隠喩的表現、文の捻れが非常に魅力的に見えた。つまり、こういうものが私の好みなのだろう。

 第二歌集『北部キャンパスの日々』は1999年11月10日から一年間の日記体で編まれた歌集で、『日輪』を編纂している最中の永田紅の姿も見られるところが面白い。第一歌集ののちの第二歌集、というより第一歌集のアナザー・ストーリー的な性格を持つ歌集としても読むことができる。内容としては、日記体という制約のためか詠むモチーフは卑小な事柄にまで多岐に渡りつつ、文体もざっくばらんなところを多く孕むようになっている。こちらからも少しだけ引こう。


  ああそうか日照雨のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで

  ※ルビ:日照雨(そばえ)


  お互いに激せば激す桜草の花ちらちらと意識を占めて


  怒らせしままにて終わるやさしさを海岸線のように思いぬ


  ひるがおの睡りあふれてすきとおる唾液をたれもたれももたざる


日輪―永田紅歌集

日輪―永田紅歌集

歌集 北部キャンパスの日々 (塔21世紀叢書)

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