採光と詩のこと
わが家は南向きに大きな窓がついているにも関わらずなぜか採光が悪く、午後に入ると外の明るさに比べ室内は徐々に静まっていき、気づかないまま日が沈んでしまっていることがよくある。午後一時ごろに電灯をつけて作業することにもったいなさやばかばかしさを覚えないでもないが、実際に暗いので仕方ない。
けれどそこでふと電灯を消してみると、窓から淡くかぶさるように室内に入ってくる陽の域が顕れてくる。キッチンの小窓に、玄関の扉の上にある窓に、光はするどく射し込むのでなく硝子の肌理をてのひらでなぞるように柔らかくきてそしてちらばる。ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵のような光彩が顕れてくるこの平日の午後を愛おしみながら、わたしはまた春休みを無為に過ごしてしまうのだろう。
就職活動の紅梅よりも濃い匂いに怯えを感じながらも、今日は長嶋有『三の隣は五号室』と北川朱実『三度のめしより』を読んだ。
- 作者: 長嶋有
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/06/08
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- 作者: 北川朱実
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長嶋有は今まで読んだことはなかったのだが、物語とその中におけるディテールの関係を逆転させる仕組みが面白いと思った。普通、1956年から2016年までアパートの一室で過ごしてきた住人の代々の生活を描いていくのなら、一話につき一人の人物の物語を描き、その中で「たまたま」呼応しあうディテールが読者によって発見されていく、というような構成にすることをまず思いつくはずだ。けれど、この小説は作者がまず呼応するディテールを発見し、そのディテールを中心にして、それにまつわる住人の生活を断片的に描いていく。物語のなかにディテールがあるのでなく、ディテールが物語を導いていく。通常のプロットの概念から随分と逸脱している。また、語り手の立ち位置もそれに応じて俯瞰的になっていて、登場人物たちでなく自らがこの小説を編んでいるのだという当事者意識が強い。ただ作品として私は読んでいてそこまで面白くなかったから、きっと別の楽しみ方があるのだと思う。
北川朱実は詩人で、『三度のめしより』は詩にまつわるエッセイ集。あまり知られていないような詩人の作品や、有名な文学者たちのユーモラスだけれど一抹の哀しみを湛えたようなエピソードが多く挿入されている。私はこういうユーモアも哀しみもあるような文章を読むのがとても好きだ。
著者のエッセイ集には他にも『死んでなお生きる詩人』という本があって、これがとても素晴らしく胸を打たれたので本書も買って読んでみた次第。私は普段詩を読むのは苦手で、詩集のかたちで読んでも取りこぼしてしまう詩句がたくさんあるのだけれども、著者の眼を借りた上で読むと、詩句の精彩が、飼い犬の頭にふってきた花びらを改めて拾いあげて眺めるように、あるいは家にひとりきりのとき食卓にあるひび割れやしみが午後の光の中で存在感を増してくるように、私にもまざまざと窺えてくるようになる。
本書の中では、特にくらもちさぶろうという人の「そうしき」という詩が読めて良かったものだった。家にあふれた本たちを縛り、捨ててしまうことについて詠った詩なのだが、すべて仮名の分かち書きで、私は古賀忠昭の『血のたらちね』なんかを思い出したりもしたのだけれど古賀忠昭のような血や怨念はなく、仏壇に手をあわせるときの無心な姿が詩の奥に見えてくる、佇んでいる。孫引きになるけれど、三連だけ引用する。
きょうかたびら を きせる ように
しろい ビニール の ひも で
なかま と いっしょ に
しばって やる
ながい わかれ を する まえ に
からだ が しなう ほど だきあう ように
かたく きつく しばる
さいご の ページ に
きえかかった ひづけ を みつけ
その ころ を おもいだし
やわらかに さすって やる
こわがる こと わ ない よ と
こころ の なか で
こえ を かけながら
(くらもちさぶろう「そうしき」部分、『ガニメデ』四十三号)
南向きの大きな窓からかぶさってくる淡い光も暗がりも、みな色彩で言えば白と言いたくなるように、詩集の文字も行間の余白も、みな色彩で言えば白と言いたくなるような時間がある。