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猫の俳句

 試験期間中深夜まで起きているのに慣れきってしまったからか春休みに入っても身体は重たく午前十時起きあがろうとしても起きあがることまで繋がらない起きよという朝の命法が行動に結びつかないまだ夢の岸辺に立ちつくしてしまっていてこちらの世界が海の中のように見えている。あまりにも眠たい人にとって起きろという命令は海のなかを歩んでこちらまで来いという命令くらい無茶なもので、立ちつくす夢の岸辺でその潮が引いていくのをただ待つしかない。潮が引ききってようやく歩みだせる。

 起きてからはアボカドトーストを焼いて、一週間の食費を3000円に済ますにはどうしたらいいか紙に書いて考えた。アボカドを一日一個食べているのを半分にすれば、週にもう一回ほど肉や魚を食べられるようになる。今まだ少し悩んでいる。アボカドは好きだが肉も魚も好きだ。

 そういえば去年かその前の年か、村上春樹がネット上の質問に答えるコーナーで俳句について何か言っていたような気がする。仔細は忘れたが、僕は作りません、という感じだったように思う。けれどもその回答では、アボカドの種はだめだよ子猫ちゃん、みたいな句を作っていた(調べたら「子猫ちゃんアボカドのたねは食えないよ」だった)。アボカドは種も食べられないけど果肉自体、他の動物にとっては猛毒らしい。だからじゃないけど、とにかくだめだよ、子猫ちゃん。

 そういうこととはまったく関係ないのだが、今日は起きてから倉阪鬼一郎『猫俳句パラダイス』を読んでいた。今は猫を飼っていないけど、幼稚園児の頃わが家にいたサスケはとても可愛いらしい茶いろの猫だった。家がなくなる前に失踪してしまったが。

猫俳句パラダイス (幻冬舎新書)

猫俳句パラダイス (幻冬舎新書)

 『猫パラ』(と略してほしいと著者がまえがきに書いている)は倉阪鬼一郎三冊目の俳句アンソロジーで、この人の知識量はちょっと尋常じゃないな、と改めて思う。大家でない俳人にもこれだけ目を配れるのは、俳句というあまりにも広い裾野を持つ文芸においては大切なことなのだろう。

 十句だけ引用する。


 東京水無月ただ白猫のはやさかな 宮崎斗士

(上の句の「東京水無月」が格好いい。どことなく暗い夜のしかし遠景に街の燈がひらめく東京を想像する。そこを駆けぬける白猫のスピードが帯になっていく)

 猫の髭にミルクの雫麦の秋 金子敦

(とても美しい、何かをいたわってあげたくなるような光景。前景と遠景が一句にまとまってあるから俳句は時に不思議な迫力を帯びる)

 霜夜かな猫の肛門ももいろに 中原道夫

(仲寒蝉の「猫の子の手を桃色に眠りけり」と桃色どうしで迷ったけど、こちらに。夜の暗さの中で明かりのように肛門が際立つ)

 夕空が透き猫が鳴き涼しくなる 阿部みどり女

(さらーっと読み下すとk音のおかげか涼しい風が体内を通っていく感じがする)

 恋猫の恋の果なる勾玉寝 大石悦子

(「勾玉寝」のユーモアと神々しさがとても素晴らしくて)

 むにーっと猫がほほえむシャボン玉 福田若之

(倉阪さんの解説では言及されていなかったけど、チェシャ猫を私は想起した。シャボン玉も消えるものであるし)

 ピカピカの猫となりゆく春の雹 鳴戸奈菜

(同作者の「くちなしや夜を連れ黒き猫参上」も抜群のユーモアと「くちなし」の甘い魔術が素晴らしかったけど、漫画的なこちらも良い)

 水中を青猫とゆく秋の暮 久保純夫

(大橋嶺夫にも「歯型美し水の終りの青猫来る」という水の青猫がいたが、こちらは水と「秋」の字にある火と、「ゆく」という旅のイメージと「暮」という終末のイメージが響きあっていて、とても美しい)

 アイロンの蒸気のかたち猫の恋 越智友亮

(蒸気のかたちを静かに眺めている作品の主体は、アイロンをかけている人とは別人だろう。人間の恋と猫の恋が重ねられて、あたたかでとても幸せな空間になっている。蒸気のかたちくらいの緩やかなかたちが恋には良いのかもしれない)

 猫よぎる玉葱畑の風光る 橋閒石

(この祝祭感と猫と玉葱畑というユーモラスさが何とも言えない。なぜかは分からないけどとても好き)


 本書の中で触れられていた堀本裕樹『ねこのほそみち』も読んでみる予定。世の中知らない作品ばかりだ。