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再開

 新しくまたブログを始めることにした。しかし一体何を書きつけることがあるというのだろう。

 書きつけることが岩盤に尖った石で傷をつけることと同義にはなりえないことに少し苦みを覚える。

 言葉がどこまでも意味を手放せないことが辛い。純粋な意味を拾えないように純粋なナンセンスを見つけることもできないでいる。

 ルは中空で沐浴せよ

 と、ブログの題につけてみた。今日、たまたま買った詩集の帯には、正しくはこう書いてある。


  落下することに舌をだし

  蹴りあげられたサッカーボールは中空で沐浴せよ

  (三橋聡「競技場にて」より、『アルルカンの挨拶』)


 屋根の低い帯では、「サッカーボー/ル」と改行されているため、私の眼には最初、「ルは中空で沐浴せよ」という詩句として映った。それをうつくしいと思った。空気に似たうつくしさだった。

 ルは中空で沐浴せよ

 これでさえも純粋なナンセンスではない。ル、とは何だろう。そこに答えが永遠に出ないだけで、その意味の外出は中空で沐浴しているすがすがしいルの姿に重なってくる。


  い、そこに薄明し熟れない一個の梨 崎原風子


 こういう俳句もあった。い、とは何だろう。やがて視線は一個の梨に移る。い、は茫漠とした場の印象として口内ににおう。それだけだ。い、はむしろここでは沐浴をされる中空の方になる。い、とは何だったのだろう。

 ルは中空で沐浴せよ

 中空で沐浴せよ。いつかは落下せねばならないのだけれど、でもそのつかの間に舌をだし、沐浴する権利が、私たちにも、意味にも、少しはあるんじゃないだろうか。私が私の、頼りない書く欲望を肯定できるのだとしたら、それはこのあたりでなされるべきことなんじゃないだろうか。