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採光と詩のこと

 わが家は南向きに大きな窓がついているにも関わらずなぜか採光が悪く、午後に入ると外の明るさに比べ室内は徐々に静まっていき、気づかないまま日が沈んでしまっていることがよくある。午後一時ごろに電灯をつけて作業することにもったいなさやばかばかしさを覚えないでもないが、実際に暗いので仕方ない。

 けれどそこでふと電灯を消してみると、窓から淡くかぶさるように室内に入ってくる陽の域が顕れてくる。キッチンの小窓に、玄関の扉の上にある窓に、光はするどく射し込むのでなく硝子の肌理をてのひらでなぞるように柔らかくきてそしてちらばる。ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵のような光彩が顕れてくるこの平日の午後を愛おしみながら、わたしはまた春休みを無為に過ごしてしまうのだろう。

 就職活動の紅梅よりも濃い匂いに怯えを感じながらも、今日は長嶋有『三の隣は五号室』と北川朱実『三度のめしより』を読んだ。

三の隣は五号室

三の隣は五号室

三度のめしより

三度のめしより

 長嶋有は今まで読んだことはなかったのだが、物語とその中におけるディテールの関係を逆転させる仕組みが面白いと思った。普通、1956年から2016年までアパートの一室で過ごしてきた住人の代々の生活を描いていくのなら、一話につき一人の人物の物語を描き、その中で「たまたま」呼応しあうディテールが読者によって発見されていく、というような構成にすることをまず思いつくはずだ。けれど、この小説は作者がまず呼応するディテールを発見し、そのディテールを中心にして、それにまつわる住人の生活を断片的に描いていく。物語のなかにディテールがあるのでなく、ディテールが物語を導いていく。通常のプロットの概念から随分と逸脱している。また、語り手の立ち位置もそれに応じて俯瞰的になっていて、登場人物たちでなく自らがこの小説を編んでいるのだという当事者意識が強い。ただ作品として私は読んでいてそこまで面白くなかったから、きっと別の楽しみ方があるのだと思う。

 北川朱実は詩人で、『三度のめしより』は詩にまつわるエッセイ集。あまり知られていないような詩人の作品や、有名な文学者たちのユーモラスだけれど一抹の哀しみを湛えたようなエピソードが多く挿入されている。私はこういうユーモアも哀しみもあるような文章を読むのがとても好きだ。

 著者のエッセイ集には他にも『死んでなお生きる詩人』という本があって、これがとても素晴らしく胸を打たれたので本書も買って読んでみた次第。私は普段詩を読むのは苦手で、詩集のかたちで読んでも取りこぼしてしまう詩句がたくさんあるのだけれども、著者の眼を借りた上で読むと、詩句の精彩が、飼い犬の頭にふってきた花びらを改めて拾いあげて眺めるように、あるいは家にひとりきりのとき食卓にあるひび割れやしみが午後の光の中で存在感を増してくるように、私にもまざまざと窺えてくるようになる。

 本書の中では、特にくらもちさぶろうという人の「そうしき」という詩が読めて良かったものだった。家にあふれた本たちを縛り、捨ててしまうことについて詠った詩なのだが、すべて仮名の分かち書きで、私は古賀忠昭の『血のたらちね』なんかを思い出したりもしたのだけれど古賀忠昭のような血や怨念はなく、仏壇に手をあわせるときの無心な姿が詩の奥に見えてくる、佇んでいる。孫引きになるけれど、三連だけ引用する。


  きょうかたびら を きせる ように

  しろい ビニール の ひも で

  なかま と いっしょ に

  しばって やる


  ながい わかれ を する まえ に

  からだ が しなう ほど だきあう ように

  かたく きつく しばる


  さいご の ページ に

  きえかかった ひづけ を みつけ

  その ころ を おもいだし

  やわらかに さすって やる

  こわがる こと わ ない よ と

  こころ の なか で

  こえ を かけながら


  (くらもちさぶろう「そうしき」部分、『ガニメデ』四十三号)


 南向きの大きな窓からかぶさってくる淡い光も暗がりも、みな色彩で言えば白と言いたくなるように、詩集の文字も行間の余白も、みな色彩で言えば白と言いたくなるような時間がある。

猫の俳句

 試験期間中深夜まで起きているのに慣れきってしまったからか春休みに入っても身体は重たく午前十時起きあがろうとしても起きあがることまで繋がらない起きよという朝の命法が行動に結びつかないまだ夢の岸辺に立ちつくしてしまっていてこちらの世界が海の中のように見えている。あまりにも眠たい人にとって起きろという命令は海のなかを歩んでこちらまで来いという命令くらい無茶なもので、立ちつくす夢の岸辺でその潮が引いていくのをただ待つしかない。潮が引ききってようやく歩みだせる。

 起きてからはアボカドトーストを焼いて、一週間の食費を3000円に済ますにはどうしたらいいか紙に書いて考えた。アボカドを一日一個食べているのを半分にすれば、週にもう一回ほど肉や魚を食べられるようになる。今まだ少し悩んでいる。アボカドは好きだが肉も魚も好きだ。

 そういえば去年かその前の年か、村上春樹がネット上の質問に答えるコーナーで俳句について何か言っていたような気がする。仔細は忘れたが、僕は作りません、という感じだったように思う。けれどもその回答では、アボカドの種はだめだよ子猫ちゃん、みたいな句を作っていた(調べたら「子猫ちゃんアボカドのたねは食えないよ」だった)。アボカドは種も食べられないけど果肉自体、他の動物にとっては猛毒らしい。だからじゃないけど、とにかくだめだよ、子猫ちゃん。

 そういうこととはまったく関係ないのだが、今日は起きてから倉阪鬼一郎『猫俳句パラダイス』を読んでいた。今は猫を飼っていないけど、幼稚園児の頃わが家にいたサスケはとても可愛いらしい茶いろの猫だった。家がなくなる前に失踪してしまったが。

猫俳句パラダイス (幻冬舎新書)

猫俳句パラダイス (幻冬舎新書)

 『猫パラ』(と略してほしいと著者がまえがきに書いている)は倉阪鬼一郎三冊目の俳句アンソロジーで、この人の知識量はちょっと尋常じゃないな、と改めて思う。大家でない俳人にもこれだけ目を配れるのは、俳句というあまりにも広い裾野を持つ文芸においては大切なことなのだろう。

 十句だけ引用する。


 東京水無月ただ白猫のはやさかな 宮崎斗士

(上の句の「東京水無月」が格好いい。どことなく暗い夜のしかし遠景に街の燈がひらめく東京を想像する。そこを駆けぬける白猫のスピードが帯になっていく)

 猫の髭にミルクの雫麦の秋 金子敦

(とても美しい、何かをいたわってあげたくなるような光景。前景と遠景が一句にまとまってあるから俳句は時に不思議な迫力を帯びる)

 霜夜かな猫の肛門ももいろに 中原道夫

(仲寒蝉の「猫の子の手を桃色に眠りけり」と桃色どうしで迷ったけど、こちらに。夜の暗さの中で明かりのように肛門が際立つ)

 夕空が透き猫が鳴き涼しくなる 阿部みどり女

(さらーっと読み下すとk音のおかげか涼しい風が体内を通っていく感じがする)

 恋猫の恋の果なる勾玉寝 大石悦子

(「勾玉寝」のユーモアと神々しさがとても素晴らしくて)

 むにーっと猫がほほえむシャボン玉 福田若之

(倉阪さんの解説では言及されていなかったけど、チェシャ猫を私は想起した。シャボン玉も消えるものであるし)

 ピカピカの猫となりゆく春の雹 鳴戸奈菜

(同作者の「くちなしや夜を連れ黒き猫参上」も抜群のユーモアと「くちなし」の甘い魔術が素晴らしかったけど、漫画的なこちらも良い)

 水中を青猫とゆく秋の暮 久保純夫

(大橋嶺夫にも「歯型美し水の終りの青猫来る」という水の青猫がいたが、こちらは水と「秋」の字にある火と、「ゆく」という旅のイメージと「暮」という終末のイメージが響きあっていて、とても美しい)

 アイロンの蒸気のかたち猫の恋 越智友亮

(蒸気のかたちを静かに眺めている作品の主体は、アイロンをかけている人とは別人だろう。人間の恋と猫の恋が重ねられて、あたたかでとても幸せな空間になっている。蒸気のかたちくらいの緩やかなかたちが恋には良いのかもしれない)

 猫よぎる玉葱畑の風光る 橋閒石

(この祝祭感と猫と玉葱畑というユーモラスさが何とも言えない。なぜかは分からないけどとても好き)


 本書の中で触れられていた堀本裕樹『ねこのほそみち』も読んでみる予定。世の中知らない作品ばかりだ。

再開

 新しくまたブログを始めることにした。しかし一体何を書きつけることがあるというのだろう。

 書きつけることが岩盤に尖った石で傷をつけることと同義にはなりえないことに少し苦みを覚える。

 言葉がどこまでも意味を手放せないことが辛い。純粋な意味を拾えないように純粋なナンセンスを見つけることもできないでいる。

 ルは中空で沐浴せよ

 と、ブログの題につけてみた。今日、たまたま買った詩集の帯には、正しくはこう書いてある。


  落下することに舌をだし

  蹴りあげられたサッカーボールは中空で沐浴せよ

  (三橋聡「競技場にて」より、『アルルカンの挨拶』)


 屋根の低い帯では、「サッカーボー/ル」と改行されているため、私の眼には最初、「ルは中空で沐浴せよ」という詩句として映った。それをうつくしいと思った。空気に似たうつくしさだった。

 ルは中空で沐浴せよ

 これでさえも純粋なナンセンスではない。ル、とは何だろう。そこに答えが永遠に出ないだけで、その意味の外出は中空で沐浴しているすがすがしいルの姿に重なってくる。


  い、そこに薄明し熟れない一個の梨 崎原風子


 こういう俳句もあった。い、とは何だろう。やがて視線は一個の梨に移る。い、は茫漠とした場の印象として口内ににおう。それだけだ。い、はむしろここでは沐浴をされる中空の方になる。い、とは何だったのだろう。

 ルは中空で沐浴せよ

 中空で沐浴せよ。いつかは落下せねばならないのだけれど、でもそのつかの間に舌をだし、沐浴する権利が、私たちにも、意味にも、少しはあるんじゃないだろうか。私が私の、頼りない書く欲望を肯定できるのだとしたら、それはこのあたりでなされるべきことなんじゃないだろうか。